ようこそ神戸婦人有権者連盟
 
 
 
 
 
 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
連盟の歴史
神戸婦人有権者連盟の誕生

 

  昭和24年、米軍政部の婦人から、先の21年の衆議院選挙において、初めて権利を行使した日本人婦人の政治に対する関心が余りにも薄かったことを指摘され、母里美枝姉を中心に約40名の婦人が集い、婦人の政治意識の昴揚と啓蒙を主体とした婦人会を昭和24年4月に発足させ、神戸婦人有権者連盟を称した。

  初代足立文枝会長が2カ月ほどで渡米したので、母里美枝姉が2代会長に就任。その後退会する人も出たが、母里会長はこの会の必要性を説き、少数精鋭のメンバーにてユニークは啓蒙活動を続け、神戸市選管ととも選挙時には今の棄権防止の草分けといえる啓蒙活動をした。

  しかし、38年の神戸市議選に友人多数に推されて立候補することになり、37年に会長を辞任した。

  しかし、38年の総会において、鈴木寿美子姉が第3代会長となった。

  その後、啓蒙運動の方法も時代とともに変わり、「我々が有権者としての自覚をもち、諸問題を正しくとらえ、判断力をもつことこそ、明るい選挙推進運動の根本となる」と言う理念のもとに勉強会を重視するようになった。



明るく正しい選挙を

 

  昭和57年に藤田タカ、昭和58年に沖中智恵子、昭和63年伊庭文子姉が会長に就任。

  平成2年4月27日、創立40周年記念大会を開催し、当連盟に功績のあった尾上正男先生、母里美枝姉、鈴木寿美子名誉会長に感謝状を贈呈した。その3氏による鼎談「連盟創立40周年の歴史を語る」と、シンポジウム「21世紀への政治と女性」を当連盟顧問の神戸大学名誉教授野口寛先生、神戸大学教授依田博先生、武庫川女子大学教授小松満貴子先生により挙行。その時「神戸婦人有権者連盟とは」のリーフレットを作成した。

  毎回、国政選挙時には、明るく正しい選挙の推進と棄権防止について、会員が積極的に街頭に立っての呼び掛けやチラシの配布、同時に候補者に対しては、

◎明るい選挙の実践
◎法定選挙費用を守る
◎悪質な選挙違反をしたときは当選を辞退する
の三点を骨子とした要望書を選挙事務所に手渡し、事務所内に掲示するよう依頼している。

震災を乗り越えて

 

  平成4年酒井知子が7代目会長に就任。平成7年1月17日阪神大震災発生。

  一人一人に安否を問い合わせた結果、2代目会長母里美枝姉はじめ3名の会員の訃報が入る、なんと9割近くの会員が全壊、半壊の被害を受けていた。勉強会の再開は半年後になって、久しぶりの再会。「この世に生き永らえていることに感謝、これからも共に支えあい励ましましょう」の声。

  平成10年3月、全国明るい選挙推進協会から東京にて表彰される。平成11年4月兵庫県選挙管理委員会からの依頼で、県庁前において全国統一地方選挙スタート白バラ旗掲揚式の旗手を務める。

  平成11年11月兵庫県選挙管理委員会特別賞受賞。平成12年4月創立50周年記念大会を県民会館にて開催。当連盟に功績のある野口寛先生、鈴木寿美子、伊庭文子諸姉に感謝状を贈呈、そして50年変わらず会員であっった秋本君江姉に表彰状と記念品を贈呈した。特筆すべきは、バザーの収益金の中から、神戸大学の留学生課に5万円ではあるが20年以上に亘り毎年寄付をし、次世代を担う日本と世界の友好のかけ橋となる留学生を支え続けている。



当連盟の方針

 国論が分れた問題については、会では双方の意見を聞く場をもち、連盟としての統一した結論は出さず、個人が判断したものを一票にこめて各自が投票によって政治に参加する方法をとっている。

 当連盟は、政治結社ではない。ただ公害の反対の立場では全会一致で意見を出したこともある。

 日本有権者同盟とは、本部支部の関係はない。同盟は革新系無所属である(故市川房枝元同盟会長の言)。いろいろな示唆を受けたが、会としては常に不偏不党の立場をつらぬき、ともにできる運動では呼び掛けもしている。

歴史を語る

 

40周年記念式典において、今は亡き尾上正男先生と母里美枝姉と現鈴木名誉会長は連盟の草創期について語っておられます。改めてここに転載する事により、当時の諸姉がどのようにして活動を模索し発展させていったのか、そして連盟が50年続くには永年に亘る尾上先生の見えないご努力があったからと推察できます。
  現在は尾上先生の愛弟子である野口寛先生が引き続き連盟の顧問として私達を支えて下さっています。

 

神戸大学名誉教授 尾上正男先生

 

 敗戦後、日本が未だアメリカの占領下に会った時、アメリカは、日本の国民を啓蒙し発展させる意味での運動の一つとして、京都・大阪・神戸に文化センターを作った。センターの館長はアメリカの大学の助教授クラスの立派な人達であった。神戸の文化センターは、星野さんというコロンビア大学を出た優秀なご婦人であった。戦後数年のことで、明確な文化活動の中心になる核も見えず、まして婦人の文化活動というものは、なかなか困難な時代であった。

 私はたまたま、ソ連での5年間の抑留生活を終えて、神戸大学の教授になっており、神戸文化センターからの講演の依頼を受けた。その後に、星野さんから「実は、婦人の団体を育てるのに非常に苦慮している。手を貸してください」と毎月1回の講義を頼まれた。私は神戸に来て半年余りだったから、出来るかどうかも判らないまま、引き受けたのであった。それが私と“神戸訃音有権者連盟”との繋がりになったのである。

 毎月1回“世界の中の日本”という一般的な題目で、世界情勢を知って貰いその中で“日本はどうするのか”ということを勉強して貰った。会員の方々はご婦人であったけれど、非常に熱心に勉強された。
私はいろいろな所で講演をする。しかし大抵は、専門のことなので、前もって勉強することは無かった。しかし有権者連盟では、毎月1回連続しての講義だったので、毎回新しい問題を話す必要があったし、会員が非常に熱心であったこともあって、私も本当に良く勉強して講義に臨んだ。事前に勉強して講義をしたのは、この会だけであった。

 数年を経て、私は神戸大学を退職し、神戸学院大学の学部長・学長と要職についたので、この会で毎月1回の講義は出来なくなり、あとを若い人達に譲ったのである。

 私が、この会で最初に講義したのは、昭和25年で45才であった。それから20年、その後20年と、会は発展してきている。それだけ続けるのには、それなりにご苦労があったと思う。しかし婦人の団体で、勉強会が40年も続いているというのは驚異的である。

 益々のご発展をお祈り申し上げます。


第二代会長 母里美枝姉

 

 女性が参政権を得て、それを行使した昭和23年の選挙結果は、全国的にみてもこれまでの選挙結果と少しも変わっていなかったし、女性の変化もなかった。

 女性の困っている問題も解決していなかったし、清潔な選挙でもなかった。

 婦人たちの政治啓蒙をしたらどうかと、進駐軍のジョセフィン・コレティ女史が、当時女史の通訳をしていた足立文栄さんに、“婦人の政治啓蒙団体を造りなさい”と言った。女史は今ある婦人会のように、親睦を旨とするものではなく、明確な活動の目的を持ったしっかりした会にすることと、神戸市全体に向かっての啓蒙活動は、有能な婦人が、20人か30人いれば十分で、“量より質の良い人を集めなさい”と言った。

 そして、初代会長の足立さんを通して、私が呼ばれて、参加者を募集したのである。個人的に政治に高い関心を持っていた人や、地域の婦人会の会長の中からも、目覚めた人達が参加され、41名で昭和24年に神戸婦人有権者連盟が出来上がった。

 活動は、選挙の無い時でも必要であると言われ、25年4月から活動し始めた。当時は、進駐軍が目を光らせており、教師も社会教育の場に顔を出して活動するように勧めていた時期だったので、私も学校に勤務しながら会長になり、二足のわらじを履く形であったが、気楽に活動できた。
時候のよい春休みや、夏の夕涼みの頃は、市の社会教育課が借りてくれたフィルムで、映写会を催した。1本は政治に関したもの、1本は子供向きのピノキオなどの、2本立てにした。そんなことが珍しい時でもあったので、沢山の人が集まって下さった。

 集まった人たちに向かって、“女の人が政治に関心を持たなければいけないのですよ“味噌汁一杯つくるにしても、政治が動いているのですよ”と一生懸命に話をした。皆、熱心に聞いて下さり、“又来いよ”という激励を受けて、街まちをまわった。稗田・成得・二葉・御蔵・須磨小学校などが、反響の多い所であった。

 このように、昭和30年まで、街頭で大衆と肌を触れ合わせながらの活動には、反響が伝わってきて“本当に有難いなあ”という感じがした。

 そうした中に、又新しい発見もあり政治啓蒙の活動はやり甲斐ある仕事でした。選挙がある時には、甲南市場・水道筋市場・春日野道・東山市場や、川崎製鉄所へむかう工員さんの帰り道、西新開地は直かに大衆の関心が伝わって来た。御蔵あたりも素晴らしい反響があった。又、元町通りを政治啓蒙の宣伝ビラを配って歩いたこともある。

 昭和30年頃になると、社会情勢も落ち着いてきて、街頭での活動はあまり必要でなくなった。私達も啓蒙の成果が上がったと考えて、その後は内に向かって自分達の勉強をすることにした。そして小学校を借りて、実際に政治に携わっておられた国会議員や、市県会議員に講演して頂いた(各党全部)。その時も沢山の有権者が集まって下さり、一緒に勉強した。又灘区稗田小学校で“立ち会い演説会をする”と市会議員の方々に葉書でお願いしたところ、1人を除いて全員ご出席下さり、聴衆も沢山集り盛会だった。当時は珍しかったので、社会教育課の方々もお力を貸して下さった。

 神戸市の編纂した“八十年史”の中に“婦人の社会活動”という項があって、そこには“神戸婦人有権者連盟”という会が、社会に向かって政治啓蒙活動をしている。ユニークで小さな会ではあるが、“山椒のようにピリッとした存在である”と書いてあります。私は、それを見て本当に嬉しかったことをお伝えしておきます。

 

第三代会長 鈴木寿美子姉

 私の有権者連盟との出会いは、昭和36年頃だったと思います。当時の私は同窓会の催しに出るか、幸坂佐登子先生の政治講座に、1か月に1回出るかでございまして、台所で燻っておりました。ただ、主人の伯母が市川房枝先生と同じ時期に、秋田から国会に出ましたので、政治や選挙に多少の興味を持っておりました。幸坂教室の稲垣スズ先輩が有権者連盟の会合に連れていって下さり、私は連盟の蒙啓活動や、5党の政治家を招いて講演会をさせたことに出席したこともあり、この会の運動に感銘を受けました。勿論私はお話を聞くだけでした。

 母里先生が議員になられてからの総会で、新米の私が思わぬ会長を抑せつかりましたのに驚きましたが、皆様が協力して下さるということでしたので、お受け致しました。母里先生は教職に就いておられましたが、私は現在もそうですが、街頭で演説など、とても出来るものではなく、“明るい選挙”“神戸婦人有権者連盟”と大下記した襷をかけて立っているだけが精一杯でした。啓蒙ビラを配る時も、口の中でもぐもぐ何か言って頭を下げ、お渡しするのがやっとの情けなさでした。

  母里先生が党籍を持っておしまいになりました為、私共を指導して下さることが、出来にくくなりましたので、私共のた たどしい運動をさぞかしもどかしく思いになたことと、相済まなく存じております。
何でも分からないことは、尾上先生、県・市の選管の先生方にご指導いただき、会員の皆様にも引っ張って頂き次第に私も慣れてまいり、選挙ごとの啓蒙ビラの内容も整ってまいりまして、赤と青の二色刷りにいたすなど好評で、捨てて帰る婦人はございませんでした。

 今は亡き吉村とく先生(社)中村千鶴子先生(自)今もご健在の林雅代先生(社)会員の故青木たき・村田よし・安藤多賀子先輩方に、特にお励ましとご指導を頂いた嬉しさが忘れられません。お陰をもちまして、会を曲げることなくつづけて参りました。

 私共の会では党籍を持っている人は、役員になって頂けませんので、現在も土井たか子・荻原ゆかこ・浜本りつ子(民)貫名初子・堀内照子(共)渡辺道子(公)の各先生は一会員でいて下さいました。おかげで私は、いろいろな角度から勉強をさせて頂きました。

 啓蒙運動は、私の未熟のせいばかりでなく時代が変わったこともあり、母里会長の通りの運動は出来ませんので、“明るい選挙推進運動の根本となりますものは何か?”と考えまして、“私共有権者の一人一人が有権者であるとの自覚を持ち、勉強によって判断力を養って、一票を正しく投じることだ”と理念づけ、それが私共の政治参加だと考えました。そして毎月の勉強会を一層重視してまいりました。又母里先生がなさったように、世論が分かれた場合、私共の会で相方のお話を聞く場を用意し、それぞれ専門の先生方にお講義をして頂くことをしてまいりました。そこで大切なことは、会として結論を出さず、各自が自由に考えを纏めることです。

 私はどの党の先生方とも偏見をもたず親しく接しお話を伺いましたので、得るところが沢山ございました。そして又、各党で催される会合には、お招き頂けば出来るだけ伺い勉強させて頂きました。
沖縄返還問題があった時、5党の先生(民主)砂田重民・(社会)河上民雄・(民社)永江一夫・(公明)渡辺一郎」の各先生方、共産党は代理の方でしたが、5党揃ってお出まし頂きそれぞれの先生のお話の後、竹島の問題などを質問致し、会はとても盛上がりました。竹島の問題については、共産党からは、後からお手紙を頂きました。

 この会も楽しい思い出となりました。こうして57年まで会長を務めました間には会にとってそれはそれは困難な事が、二度三度ございましたが、時間を限られているので、今日はお話しできません。その度に尾上先生や、先輩の会員、皆様方のご協力が心の支えになり、無事切り抜けてまいりました。
57年5月 体調を崩しておりましたので、三代目会長を引かせて頂きましたが、本当に皆様のお陰で、無事次の会長にバトンタッチすることが出来ましたことを、感謝いたしております。

 四代目藤田タカ会長は、ご病気の為1年だけお務め下さり、五代目沖中智恵子会長は一生懸命に乙と手頂きましたが、川崎市にご移転のため、2期(4年)お務め頂き、62年伊庭会長(六代目)になりました。

 四代目・五代目の方々の時は、私も執行部の一員として、いろいろのご相談を受けましたが、伊庭会長は、大変ご立派なお方なので、私からは何も申し上げることがございません。
ただお願いしたいことは、母里先生のお話にもありましたように、この創立の時の“婦人の政治啓蒙という目的を持つ会である”というこの筋だけは、大切にお考え下さり、発展させて頂きたいと願っております。(創立40周年記念式典「40年を語る」より抜枠)

 

 


   

 

 

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